さやなかなるときをここで...

あした

 今日は会社を休んだ。

 きっかけはただそれだけだった。特に体調を悪くしたわけでも、仕事に行き詰まり感を感じて逃げだしたくなったわけでもない。朝目が覚めた瞬間「今日は休む」という決定が自分の中でできていただけ。上司が出勤して来る時間を見計らって会社にに電話をすると「休ませてください」の一言で「お大事に、ゆっくり休んで明日元気な顔見せてくれ」と病欠扱いになっていた。

 電車で街に出た。普段は足早に通り抜けていく風景をゆっくり歩きながら新たなどうしようもない発見を今度仕事で通るときには気になって見てしまうのだろうと思いながら楽しんでいた。喫茶店でのモーニングを遅い朝食代わりにしながら『歩く健康』を語っているテレビを片目に汗しながらスーツをまとったサラリーマンを眺めていた。
 テレビの影響ではないが自宅まで歩いて帰ろうと決めた。二時間も歩けばたどり着くだろう。周りを歩く女性たちの腕は太陽にさらされている夏の装いだ、梅雨の前の蒸し暑さが電光掲示板の現在の気温の表示で一割り増しした気分だ。帰り道の途中にある大型書店で以前から購入を予定していた本とCDを押しつけがましいポイントカードの案内に少々辟易しながら買った。
 店を出ようとすると不意に肩をたたかれた。振り返ると毎日あわせる顔がそこにあった。
「今日は、お休みですか。朝も顔を見なかったので。こんなところで奇遇ですね」
 毎朝、満員電車をさけるために始業時間の三十分前に会社のある駅についてしまう。その時間なら運が良ければ席に座ることも可能だった。そして、その三十分間をいつも喫茶店で過ごす、不思議なもので一ヶ月もその店に通うとほぼ同じ顔がいることに気がついた。中には決まった曜日にしか顔を見せない人もいたのだが。
「ああ、いつもどうも。この前は新聞を譲っていただき」
 そう、先日、手を伸ばしかけた新聞に先にとったのが彼で、自分は急がないからと譲ってくれた。店を出るとき彼はいつもゆっくりと紅茶を飲んでいる。
「あなたと違って僕は時間に余裕がありますからね、時々、呼び鈴が鳴りますけど」
 そういってポケットベルを取り出した。朝には見せない笑顔がそこにはあった。

 たまたま買った本が同じだったことで道すがら話が盛り上がったこともあり、歩く方向も同じだったこともあり。お互いに時間に余裕があったのもあり、一人で昼食をするわびしさを解消したかったこともあり、彼の提案でうどん屋に入った。
「綾奈悦彦と申します」
 うどんを食べている間は終始無言だった。食べ終わり緑茶が運び直されるとおもむろに彼はそう言って、名詞を出した。そこにはポケットベルの番号と携帯電話の番号とeメールのアドレスが書いてあった。何故か肩書き、会社の名前は無い。体に染みついた反応は恐ろしいもので財布の中に一枚だけあった自分の名刺を出した。
「ああ、携帯電話は持ってるんです。電源は入っているんですが音は鳴りませんしほとんど持ち歩きません。急用の時はこっちですね」
 多分自分の顔がはてなで充たされていたのであろう、彼は、綾奈はそう説明してポケットベルを指し示す。
「あ、そっちじゃなかったかな。会社の名前入ってないのは、僕はまだ大学にいるんです。助手みたいなことをやってるんで、あと、他にも友人の会社の手伝いとかいろいろ。なので肩書きは無しです」
 変わった男だ。大学で助手をやっているなら堂々とそう書いても良さそうなものなのに、正式に助手として扱われていないのかもしれない、そのあたりにも目の前の人物のに興味を引かれつつある自分がいる。年齢は多分おなじくらい二十代中盤から後半にかけて、多分実際年齢より若く見られそうな気がする。風貌と言動の不一致さがそうさせるのであろう。
 彼の話を聞いていると、自分の毎日の生活がいかに束縛されているのか思い知らされる。朝の喫茶店ですら自分の場合は満員電車を回避するという、ある意味マイナスの思考から。彼の場合は朝の散歩の終点で喫茶店に入り軽い朝食をするという、ときどき徹夜明けの大学の帰りになることもあるようだが。かといってその束縛に不自由を感じているわけでもないし、自分で自由に出来る時間もある。自分は改めて今の現状に満足しているのだと、そして、その積み重ねで今を得ているのだと思った。
「明日、会社に行ったら自分の席が無い。そう言う状況を想像したことが、かつて、一度だけある」
 その言葉を言った自分自身が驚いた。多分、彼のいった自分の現在おかれている不安定な状況に対して対抗したい部分があったのだろう。いわゆる不幸自慢というやつだ、自分の中にもそう言うものがあるのは十分承知していたが、ここで発揮されるとは思わなかった。
「入社して二年少し経った頃、社長と一緒に動くことが多くなった。その頃手がけていた仕事でどうしても社長との同行が必要だった。一度だけミスをしたと思う。直接仕事に響く失敗では無かったんだが、社長の個人的な領分に踏み込んでしまったんだとおもう。その仕事が終わると社長の態度は一変した。心当たりがあっただけだけに、相当のプレッシャーだった。いい仕事も私のところにはこなくなった。耐えに耐えた、君にはわからないと思うけどね。逃げ出す強さは私には無かった。見かねた上司が社長に直談判してくれた、どういう内容だったのか上司は未だに教えてくれないがね。それからは、うまくいっている」
 彼は真面目な顔で少し悲しげな表情をしながら話を聞いていた。
「多分、僕が今の状況でトップと決裂してしまったら、翌日には席は無いでしょうね。小さい組織はそこが弱いですね。幸いトップはおおらかで人の些細な言動に左右される人じゃ無いので僕みたいなのが居させてもらえるんですけどね」
 彼なりの分析なのだろう、しかしあの時、間に入ってくれる人が居なかったどうだろうと思うとぞっとする。
「なんか、病院の一角の病気自慢になっちゃいましたね。毎日のように、顔合わせているのに何も知らないんですよね。いろいろ想像できて面白いですが」
 それはいつも自分がしていることだった、コーヒーがからになり時計を見てもまだ時間があるときは毎日のようにあわす顔を見つけて、着ているものだとか、行動をみて、その人の事をあれこれ想像してみる。時間はあっという間に満ちる。みんな多かれ少なかれあの空間ではそう言うことが行われているのだろう。夜の居酒屋ならそこから直接的な関係が生まれる可能性も決して少なくないのだろうが。
「あなたはもっと自信家のタイプかと思っていました、良い意味でね。想像していた部分に重なるところもありますけどそれは内緒です」
「君は思っていたとおりだよ、自由というオーラを身にまとっている。それが今の君を象徴しているんだろうね。想像と違っていたところもあるけどそれは内緒だ」
 お互いに顔を見合わせて笑い、再び今日手にした本の作家の話に移っていった。

 また彼とは明日の朝、顔をあわせるのだろう。お互い今の場所にとどまっている限り。毎日、朝の喫茶店でいつもの面々の顔を見ながらそう思うのだろう。

 明日は毎日やってくる、希望や不安をひっくるめて。永遠など無いと知っているから明日が大切になる。自分がこんなに積極的に思考をするのは彼に会ったせいだろうか。良い休みになったものだと思う。あと半日何をして過ごそうか・・・
 明日、いつもの場所にいつもの人が居て自分が居るという、永遠には続いていかない事象に安心感を覚えながら。

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