演じること
ヒトは常に、役割を演じながら生きている。
子供であり、親であり、生徒であり、従業員であり、友人であったりする。
自分が属する組織に対しての立ち位置が、自然と演じる内容を決めていく。
従順な子供。寛容な親。横着な生徒。優秀な従業員。偉大なる友人。
反抗的な子供。厳格な親。真面目な生徒。粗暴な従業員。尊大なる友人。
同じヒトでも環境が変われば、演じる内容がかわっていくのは当然のコト。その場所に適した行動ができるという意味において「裏表がある」というのはよいことなんだよね。
実は、出来るようで出来ないのが相手の立場にたつということ。
コミュニケーションという「能力」関しても、自分が演じるていることを認識することで、相手の立場に立つということをしやすくなるし、想像力の幅が広がっていくことで、上昇していく。
演じる能力が弱ると、心が弱っていく。
心が弱ると、演じる能力が弱っていく。
その環境への自分の反応が、産まれる透明な仮面(ペルソナ)であるのなら、「いつもと違うよね」って言われるのは、その場で演じている仮面が割れて別の仮面をみられているから。
ただ、その仮面はあくまでも透明なんだよね、仮面の集合体である自分は常にみられていることは忘れちゃいけない。
演じることに、無理や嘘が絡まってくると大変なことになるのは明白。
心が破綻することにつながっていったり、
人から疑いの目でみられつづけたりする。
「優等生を演じるのに疲れた」と遺書をしたためるヒトもいたけど、それは無理矢理に演じさせられていたんだろうね。
「つきあい始めたらちがった」と別れの理由とするカップルもいるけど、嘘はいつか破綻するんだよね。
日常で、無意識に行っている「演じること」を意識するためにも、演じる訓練をするというのは面白い。「コミュニケーション力を引き出す 演劇ワークショップのすすめ」と読みながら、沢山の言葉が頭を駆けめぐった。