さやなかなるときをここで...

空飛ぶ金魚

 風にのり雲が走る。
 雲の切れ目から白い半月が顔を出す、まわりの雲に吸い込まれそうなほど存在が感じられない。
 窓のカーテンを開けながら思った--私に似た月--
 せっかくの休日も何もしないまま過ごすのかと思うと不安で胸がいっぱいになる。
 窓から顔を出し下を見る、学生たちの元気な姿がいらだちに拍車をかけた。
 西の空を見るとこれから欠けて行くであろう月は雲に隠れていた。
 その雲の形はどことなく金魚に似ていた。

 毎日、毎日変わることのないルーチンワークにもこれといった楽しみもなく、仕事のあとの同僚とのつきあいもただ愚痴をこぼされたり、噂話を聞かされるだけ。
 休みが来る度に自分は何を毎日やってるのだろうと思う...
「変わらなきゃいけない」なんて漠然と思うだけ、はじめの一歩がなかなか踏み出せない。

 アドレス帳を開き友達の名を探す、皆仕事で捕まりそうもない。
 平日の休みを恨みながら、いつも休みをもてあましてしまう。
 アドレス帳を入れた鞄を棚にしまった時、ひじがレターボックスを倒した。
 散らばった手紙や葉書はそのままにしてベットに腰掛けた、枕元においてあったCDのリモコンを手に取りプレーヤーを動かす。
 ボーカルの澄んだ声がワンルームマンションの部屋に響く、いつもまわりの住人に気を使いボリュームを下げているが今日は気兼ねなくボリュームを上げる。
 体に直接響いてくる高音が心を落ちつかせる。もしかしたら休みの日の唯一の楽しみかもしれないと思い溜息が出た。
 散らばった手紙や葉書を片づけはじめた、お気に入りの一曲が終わって行動意欲がわいてきた。一枚一枚確かめながらボックスに片づける、そして一枚の転居葉書が手を止めた。
 高校時代の友人から来たものだった、届いたときはそれほど気にしていなかったが住所は私の住まいの近くだと教えてくれる。そして、電話番号は携帯電話のものだった。
 彼はいったい今は何をしているのだろうと気になったらそれが頭から放れず、残りの葉書をまとめてボックスにしまい受話器を取った。
 数回のコールの後に受話器から懐かしい声が聞こえる。
 近くの喫茶店で会う約束をして電話を切った。彼はまだ学生の身分らしい、これから遅い朝食をとってから家に帰ると言っていた。私は支度も程々に部屋を出た。

 喫茶店にはいると彼は朝食をすでに食べ終えていた。テーブルの上にはきれいな皿と湯気の出ているティーカップがのっている。
「相変わらず、美味しそうに紅茶飲んでるね」
 私はそう言いながら椅子に座る。
「お久しぶり、悦彦君まだ学生なんだ」
「進学したからね、会うのって六年ぶりくらいだよね」
 私は指を折って数えはじめた、そこに店員がやってきて私の注文を聞いていく。
「そうね、高校の卒業式以来だからそれくらいかな」
「こっちに戻って就職したんだね、一人暮らししてるんだ」
 私の目をじっと見ながら話す、高校の時は照れくさかった視線が今はそれほど気にならない。
「ええ、最初は実家から通う予定だったけど兄さんが結婚して私の居場所がなくなって」
「それはおめでとう、あの頃はよく行ったね、君の兄さんにもずいぶん遊んでもらったし」
 私の実家は高校から歩いてすぐの所にあり、テスト前はたまり場と化していた。
「望美はどうなの結婚とかは」
「全然、そんな気になる前の問題。相手がいなきゃどうにもならないでしょ」
 二人の間に沈黙が走る、そこに店員がコーヒーを持ってきた。
「そういえば潔とは会った」
 久しぶりにその名前を聞いた、少し胸の奥が熱くなる。
「大学一年の冬、別れ話してからあってないよ」
 それからは取り留めのない思い出話が始まり、目の前にはケーキの乗っていた皿と空になったグラスが増えていた。

 肩と肩がぶつかるが誰もそんなことを気にもせずにただひたすらこの数分の密室を耐える、自分の世界に閉じこもってしまうのが手っ取り早いのでいつも眼を閉じてこの時間を過ごす。話し相手がいればまた違うのだろうと思うが、この空間で自分は人と会話はできないだろうと結論を出している。
 改札を抜けるとまだ外は明るかった、地下鉄に乗ると太陽が恋しくなる。
 本屋で新刊文庫を見ていると肩を叩かれた、何の気無しに振り返ると悦彦が立っていた。
「お疲れさま、どうしたのきょとんとして」
「あっ、悦彦君。ごめんびっくりした。まさかこんな所で会うとは思わなかったから」
 悦彦は笑いながら文庫の山から三冊本を選びだした。
「そんなにおかしい」
 私が訪ねると、首を振りながら答えた。
「いや、昔ここで同じセリフを聞いたことがあったもんだからつい」
 語尾が笑い声でごまかされていく。悦彦は笑いを抑えつつ手に取った文庫を眺める、一冊だけ山に戻し下の方から文庫を取り出す。満足した顔で私を見る。
「本買わないの」
 私が首を振ると、ちょっと待っててと言ってレジの方に本を持っていった。

 自動販売機でジュースを買い、影の長くなった公園のベンチに座って話をしていた。不意に話が途切れたところに悦彦がぽつりと言った。
「どうした、昔みたいな元気ないね」
「もう二十四だよ、高校生の時みたいに若くはないわよ」
 私は顔を横向けて言った、背中に視線を感じる。
「そう言った意味で言ったんじゃないんだけど…」 
「どうせもう若くないですよ、悦彦君みたいにまわりはみんな二十前後の若者ばかりの環境にいるわけじゃないんだから」
 私は立ち上がりながら言った、溜息が聞こえる。
「そんなにすねないで、それななら率直に言うよ、毎日つまらないんじゃない」
「……」
「ごめん、見ていてそう思ったから、昔の強烈なイメージと今の望美が全く重ならないから」
 振り返るとさみしそうな目で私を見つめていた。
「……わかってる。最初から悦彦君の言いたいことはわかってるわ、大学出て会社に入ってそれなりに希望も持ってやってきたわ、でもね2年たってなんにも感じなくなったの」
 少し悦彦の目が笑ったような気がした。
「ねえ、もう演劇やってないの」
「えっ…」
 いつもながら話が急に変わる、この会話のテンポはちっとも変わってない。
「いや、続けてるのかなと思って、あんなに好きだって言ってた演劇だから」
 私は再びベンチに座りながら言う。
「大学で劇団に入ったけど続かなかった、何か違った」
 それから私は大きく見えてしまう太陽を見ながら悦彦に口を挟ませることなく自分のことを話し続けた。

 それから三日後。悦彦から郵便が届いた、封筒をあけると二枚のチケットが入っていた。
『幻想天幕・夏公演 -- 明日は来るよ-- 』

 私は一人で劇場に来た、もう自分のまわりに演劇を一緒に見に来るような友人はいなかったからだ。いっそのこと悦彦に連絡して彼と見に来ようかとさえ思った、さすがにそこまで失礼なことはできなかった。
 会場にはいるとパンフレットはそのまま鞄にしまって席を探した。いつものようにパンフレットそれ自体は開かず折り込みのチラシに目を通す、所々に知っている名前を見つけて嬉しくなる。
 そして、幕が開いた。

 直接からだに響いてくる台詞、視界いっぱいに広がる動き、改めて芝居の良さを痛感した。久しぶりに感じる劇場の雰囲気に目尻が下がり、涙腺までゆるみそうだ。
 そして、暗転。

 舞台の中央にだけライトがあたる、背中を照らされた男が振り返る。
 私はその顔を見て声を出しそうになった。今舞台に立っているのはまぎれもなく高校時代つきあっていた潔その人だった。
 その瞬間、涙があふれてきた。
 自分の中で必死になって隠そうとしていた気持ちが堰を切ったようにあふれでる。大学で劇団に入って感じた不安、それは彼がいなかったから。何かが違うとまわりに理由を求め自分の気持ちをごまかし、会えないという不安だけで彼を傷つけたのに自分が傷つけられたと思いこませた。甘えていただけだった、それが彼からの別れの言葉につながった。別れたくはなかった、それさえ素直に言えずに彼の言葉をただ黙って聞いてるだけだった。
 目の前で必死になって演技をしている彼の姿が涙で徐々に見えなくなる。     
 自分の本当の気持ちから眼をそらし続けた結果が自分の生活から本当の喜びや哀しみを奪っていた。
 演劇をやりたい。

 そして、幕が下りた。
 涙は乾いた、自分の中で失いかけていた夢を思い出させてくれた。鞄の中からパンフレットをだす。開くと昔と変わらない笑顔の潔の写真があった。
「アンケートにご協力おねがいします」
 そう言われ肩を叩かれたので振り返ると悦彦が立っていた。
「相変わらずだね、芝居終わってからパンフレット見るの」 
「ありがとう、チケット。一枚で良かったみたいだけど」
 悦彦は私の顔を見て意地悪な笑みを浮かべた、そして隣の空いてる席に腰掛けた。
「潔君、ずっと演劇続けてやってたんだね」
「潔だけじゃないよ」
 そう言って私が広げているパンフレットを指さす。
 --演出・龍造寺潔 脚本・綾奈悦彦--  

 その日から私は変わった。誰もがふと見る淡い夢 --金魚が空を想うように--私は演劇を好きだってことを、ずっと演じ続けたいと願っていたことを思い出した。