さやなかなるときをここで...

雨の木曜日

 その日は季節外れの暖かい雨だった。
 ほとんどの生徒が制服のブレザーを椅子の背もたれにかけて授業を受けていた。二学期の期末テストを一週間後に控えた教室はいつもより格段に静かだ。しかし、風に乗った雨粒が教室のガラスを叩く、隙間から入ってくる風の音と重なって先生の声をときどきかき消す。

 僕はいつものように帰り支度をはじめていた、周りではテストの出題範囲の確認の声や、今夜のテレビの話題、漫画の貸し借り、いつもの放課後の風景が広がっていた。
「悦彦、サンキュ」
 そう言って、折りたたみ傘を差しだしたのは隣のクラスの友人の潔だった。
「そうか、そういえば貸してたか....」
「朝から雨の降ってる日じゃないと傘の事なんて思い出さないから、長い間悪かった」
 潔はまじめそうな顔を作って傘を僕に渡した。傘を鞄にしまいながら潔の荷物を見て聞いた。
「朝そんなに寒かったか」
「いや、雨ふってたから寒くなるかなと思って、それにこのコートならレインコートの代わりにもなると思ったから」
 潔はそう言いながら両手に持っていた荷物を机におき、ネクタイをゆるめシャツの一番上のボタンをはずした。
「それにしてはそのマフラーは余分じゃないかい」
 僕は無表情を心がけてそう言った。それに対して潔は鞄の中から革の手袋を出してニヤリと笑った。

 テスト一週間まえからテストが終わるまで帰りの校門は生徒でいっぱいになる、部活は活動停止、教室にとどまると先生の小言、我先にと校門を出ていく。さらに今日のように雨が重なると大渋滞になる。僕らもまたそのなかで吹き付ける雨に苦しみながら歩いている、潔は同じ演劇部の望美の傘の下で自分の傘を開くのにとまどっていた。いつのまにか周りにはいつもの面々が集まりながら歩いていた。そして、僕らはその大渋滞のなか潔のみんなで勉強しようと言う提案に頷いていた。
 このメンバーが集まるときはたいてい学校から五分とかからないところに住んでいる望美の家がいつも使われることになる、結局勉強そっちのけで会話に夢中になる。
「一年後の今頃はみんな夢を近づけるために一生懸命勉強してるんだろうね」
 望美がぽつりと言った言葉には皆顔つきが変わった。
 バス停の屋根が意味をなさないほど雨が風に吹かれて制服をぬらす、いつものこの時間なら部活帰りの生徒でにぎやかになるはずのバス停だが今日はさすがに誰もいなかった。
 バスが交差点を曲がってやってきた、すいている。
 雨の日にしかバスを使わない僕にとって座って乗って行けるというのはほとんどないことである。近くに大学があり二つ前のバス停で学生がたくさん乗る。しかし、今日はその学生もほとんどいないようである。
 僕はバスに乗り込み真ん中くらいにある二人掛けの椅子に座った。鞄からイヤホンを取り出し耳に付ける、周りに人がいないのをいいことにボリュームをいつもより上げる。
 バスには女性が一人乗っているだけだった、たぶん学生だろう。
 頭に直接響く音を楽しみながら目を閉じていた。赤信号でときどき止まる、しかしバス停で止まることはなかった。
 終点の地下鉄の駅に近づき耳からイヤホンをはずしてテープを止める。外を見ると車のワイパーがせわしなく動いている。
 バスのターミナルに入るとバスが急に止まった、いつもの降りる場所ではない、前を見るとタクシーが停留所の前で止まっている、そしてバスのドアが開いた。

 ドアの前で一緒に乗っていた女性が立ち止まっていた、じっと外を見ている。傘を持っている様子はなかった。
「これ使って下さい」
 僕は鞄から折りたたみ傘を出してカバーをはずした。
「ありがと、それじゃあ使わせてもらう」
 僕が傘を出したのに少し驚いた表情でそう答えると彼女は傘を受け取った。バスのステップを降りながら傘を開き靴が水しぶきを少しあげる。僕はそのあとを同じ事をする、バスはドアが閉まり車庫の方へと向かった。

「傘盗まれたみたいなの」
 地下鉄の改札を通り抜けたあとに彼女は言った。同じ方面のホームに向かう、偶然だねと二人は笑った。
「卒論の文章考えてたらいつのまにかみんな帰っちゃってて、帰ろうと思って傘立て見たら傘なっかたわ、人通りの多い廊下だから犯人なんて推理しようがないけどね..」
 電車を待ちながら、彼女の横顔が少し険しくなった。折りたたみ傘は彼女が持ったままだ。駅のアナウンスが電車の到着を知らせる、どこで降りるのか訪ねるとそれは僕の降りる駅だった。
 地下鉄が動き出す、ときどき電車の音で声がかき消されるが二人の会話はスムーズに進んでいた。僕はこの偶然を楽しんでいた、普段接点のない人と会話できることがたまらなく嬉しかった。
「どうして傘二本も持ってるの」
 僕は放課後のことを話した、そして、その傘は潔に貸す一週間くらい前まで別の友達に貸していたこと、それが買ったばかりのものだったことも。
「この傘は君のものだけど君は使ったことないんだね」
 そう言って彼女は傘を僕に差しだした、しかし、僕は受け取らなかった。
 地下鉄の改札を抜け地上に出てもまだ雨は激しく降り続いていた。二日後の土曜日の昼に傘を返すという彼女との約束を胸に僕は彼女と逆方向に歩いていった。

 地下鉄の改札を出ると彼女はそこに立っていた、お茶の誘いを素直に受けて喫茶店に二人で入った。
 喫茶店をでるときには雲が切れはじめ西の空には青空が少し見えていた。

 雨降りの木曜日には必ず彼女と会った。
 約束をするわけでもなく、互いに初めてあったバスに乗っていた。

 僕にとって彼女と過ごす時間が会う度に貴重なものになっていった。
 しかし春には彼女はこの街を出ていく、他の街で生活するために。

 桜の咲く前、再会を誓い「またね」って言って別れた。

 
 それから五年がたった。
 季節外れの暖かい雨の降る日、幸せそうな結婚式の写真の付いた葉書が来た。

「あの日、君の傘が一本でも二人が出会えたらなら運命は変わっていたかも.....」