さやなかなるときをここで...

想い出は流れるまま〜橋梁

 足下を電車が通り過ぎる、電車が止まり人の交差が始まる、橋の上からその風景を見た瞬間ふと昔の風景を思い出して足を止めた。何を求めているのか自分でもわからなかったあの頃、あまりにも行き当たりばったりな考えが自分を造っていた。
 あの男と出会ったのはこの真下の駅から南に一つ目の駅のコンコースだった、「暇」の問いかけに素直にうなずいた自分がいたということからその男との関わりが生まれた。
 秋の中盤、落葉樹の葉が枝にしがみついているのを何気なく見ていた。横では男が私の腰に手をまわし、少しずつ私の体との接する面積を増やそうとしていた。歩きながら様々な質問を私にぶつけてきた、適当にはぐらかしながら歩調を合わせる。
 公園では日が沈んだあと照明だけが闇を否定してた、男は立ち止まると私の唇に自分の唇を押しつけた。腰にまわされなかった手が私の胸をつかむ。私は何も考えていなかった、目の前にいる男を見ていなかった。
「やっぱ不毛だ、やめ」
 男はそう言うと体を密着させるのをやめて私の手を引き近くのベンチに腰掛けた。
「ゴメン、きょうの自分だめだ」
 なんて自分勝手な男だろうと思い、私はその場を去ろうと決心した。
「虫のいい話だというのはわかってる、今から始めましてじゃだめか。あと少しだけつきあって欲しい」
 あまりの図々しさに腹も立たなくなった、そこには妙に無邪気な笑顔があった。私自身にも責任がないわけではない、唇が唇をふさぐ瞬間否定しようと思えば否定できていたのだから。初めてあった男に腰に手をまわされてそこまで予想できないような自分ではもうなかった。
「その感情のなさそうな視線が気に入ったんだ」
 私に声を掛けた理由をしゃべり始めた、腰に手をまわしていたときのような変に気を使った話し方ではない、それが男の本来のスタイルなのであろう。
「ありがとう、一応言っておくわ。今までそんなこと誰にも言われたことないから」
 目が冷たいとはよく言われる、それを気に入ったなどと言う人間は初めて出会った。

 その男は私が何かの用事がある時しか行かないその駅に行くとほとんどいた。そして当然のごとく私を見つけてそばにやってくる「暇」と必ず最初に私に尋ねる。私がその駅に行くのも大体同じ曜日の同じ時間、最初に会ったのがその曜日その時間だから会う確率は低くはない。

 会うたびに印象は良くなっていく、最初の印象があまりにも悪すぎたからどんな人でも良くなっていくのは当たり前なのだろう。惑わされてはいけないと思った、あのとき見せた姿もまたその男の本質、しかし目の前に彼の目がくるとそれを忘れてしまっている。
 次の休みの日に会う約束を結ばされた、独りで買い物に行くと口走った代償。独りで行くと突っぱねていたがあまりのしつこさに根負けしてしまった。

 まるで恋人のように私を扱い、それなりに気持ちよく二人の時間を過ごしていた。私は毎年使っているお気に入りの手帳を求める、後でのぞきながら「使いやすそうだ」などと呟きながらほかの手帳と比べていた。
 休日の不規則な人並みにもまれながらその男の手は私の右手をしっかり握り続けていた、その温かさは気持ちよかった。

 空が紅く染まり、街も紅く、落葉樹も紅い。
 人混みから少し逃れ、街を歩く。時々吹く風が隣にいる男の温かい左手の存在を大きくする。
 男が帰りに乗って行くであろう電車の発着する駅を見渡すことのできる橋の上で私は家に帰ることを告げた。
「つきあって欲しい、好きになった。本気だ」
「私のどこが好き」
 私はその答えにどこか掛けていた。私の耳には車の音や電車の通過する音が異様に大きく聞こえていた、その間が私を冷静にした。
「・・・すべて・・・」
 私の求めていた答えとは全く違った、もし私の質問に即その言葉が返ってきたら結果は違っていたかもしれないが。
 そのあとどんなにその男が言葉を重ねようと私の心には響かなかった。やはり最初に見せたその男の姿にこそ彼の本質だということ、その本質を私は受け入れられなかった。

 改めて思い返すと自分をさらけ出すことを教えてもらった気がする。最初に無理に作り上げた自分を見せてあとからメッキがはがれて正体表すより、自分を自分らしく見せるための準備をする事の方が大事だと思い始めた。負の方に向かう感情より正の方向に向かう感情の方が良いのだろうから。
 その男と出会い別れたことが私を少し変えたのであろう、久しぶりに顔を思い出そうとしてみたが目しか思い出せない。
 あの目に惑わされ続けたいと思っていた自分がいたことも事実、彼の本質を受け入れることができない自分がいたことも事実。私は自分で選んだはず、場所がここではなくてもっと静かな、たとえばはじめて会った公園のベンチで周りの雑音が逆の効果を私に与えたとしたら私はどうしたのであろう。結果はどちらにしろ私がそのとき選択したのは今の私に続く道。あの日と同じような風景が橋の下では繰り返されている。
 心を通わすこともなく一瞬のうちに通り過ぎたその男、そんな人ですら私に何かを与えてくれた、もうすぐ隣に来るであろう人にはもっと沢山何かをもらっているだろうし、与えているかもしれないと思うと幸せになれる。

 電車が人を乗せ流れるように走り始める。あのときの想いは今の私に流れ続ける過去の選択のひとつであり、これから流れ続けるであろう未来への礎のひとつのはず。