さやなかなるときをここで...

想い出は流れるまま〜満月

 未曾有の大雨であたしは、彼の家に行くのをあきらめた。
 電車のダイヤは大混乱、駅で止まったきり動く気配もない。ほとんどの乗客は仕事帰りだろう、携帯電話片手にいらつきを隠せない人たちばかりだ。あきらめて、電車を降りホームで煙草をふかす人や時化こむ雨に目を細めながら週刊誌をホームの柱にもたれながら読んでいる人、電車で帰るのをあきらめたのだろうか、駅をでる人様々だった。
 あたしも電車を降りた、わざわざ狭いだけのところに自ら好んでいる理由もない。駅員ともめている乗客の話に耳を傾ける、どうやら、電車は完全に止まってしまったらしい。原因までははっきり聞き取れなかったがその耳に入ってきた駅員の言葉であたしは決心した。
 運のいいことに同僚の家の最寄り駅までそう遠くはない。引き返すのも何かしゃくだったし電車が動くようになった時にも備えたかった。せっかくの休日を悪いと思いながらも携帯電話に電話をかける。何度もかける。やっとのことでつながった電話はいつも以上に細いつながりのような気がして必死で用件を伝えた。

 その夜は彼女の家で、もう一人すぐ近くにいる元同僚が雨の凄さに心細くなって電話をかけてきたのを幸いに巻き込み、普段の職場で会話できないうさをはらすように話し続けた。窓にあたる雨の音は弱まることはなかった。
 明け方まで話し続けていたで起きたのはお昼過ぎだった。目覚めは最悪だった、家主の悲鳴であたしは起きた。彼女の目線の先を見るとテレビが見慣れた風景を映し出していた。彼の家に行くときに通り過ぎる風景が一変してそこに映し出されていた。
 街が水没していた。

 携帯電話が震えていた、電話にでると母親の金切り声。夕べ電話で所在を伝え、帰れなくなったと話したにもかかわらず声のトーンがいつもよりさらに全三度は高い。携帯電話の着信履歴を呼び出すとほとんど自宅からの電話に塗り替えられていた。唯一昨日の夕方友達からかかってきた電話が一件残っていたのみだった。
 テレビに目を向けるとここから数キロ先ですでに浸水の被害が出ていた。同僚たちの電話も鳴り続けた、さすがにテレビの被害地図を見る限りこの地が含まれるかどうかの判別は不可能だ。外に出るとヘリコプターの爆音で隣同士の会話さえ難しかった、テレビの取材ヘリなのだろう。自分たちのとりあえずの安心を確認して、ほっとしたあたしたちは座り込んでしばらく動くことすらできなかった。
 近くの総合駅まで行けば何とか自宅に帰ることができるという状況になったので、元同僚の子が車で送ってくれることになった。しかし、当然のごとく道は大渋滞。普段なら三十分かからない場所に二時間以上かかってしまった。駅に着いたときにはもう陽は落ちていた。二人で軽い食事をとり彼女を見送った時に時間は夜の八時を回ろうとしていた。

「あ、えっと」
 あたしを追い抜こうとしていた男があたしの顔をまじまじ見ながら言葉を続けようとしてた。
「あたし、知らないよ。あなたのこと」
「え、ああ。ゴメン、そうだよね。あの子がここにいるわけないし。でもそのほくろ、位置も大きさも一緒」
 彼はにっこり笑ってあたしの隣を歩いた。知り合いを装った軟派でもなさそうだ。単なる人違いなのだろう。
「ねえ、ナンパされる時間ある」
 隣をまっすぐ前を見て歩きながら彼は自信なさげに言った。あたしは、思いっきり笑ってしまった。
「かわいいな、その笑い顔。実は今日、中秋の名月なんだこんな状況でしょ。誰もつきあってくれなくて」
 また、風流な軟派だ。断るつもりが罪のなさそうな笑顔に少し惹かれて、あたしは首を縦に振っていた。

 すこし月色に染まった薄い雲が漂い流れていた。駅のすぐ近くにある小さな公園、桜の木が公園と線路の境界線を作っていた。いつもより格段に静かなのであろう、総合駅に入ってくる電車の数も少ないと彼はいった。
 自動販売機で買ったジュースを片手にお月見。街灯りと月明かりで全く星は見えなかった。

 すっと彼があたしの手を取りぎゅっと手を握る。あたしの手を握った手は震えている。彼はあたしの顔を懇願するようにじっと見つめていた。
「すごくね、不安なんだ。街全体の空気が自分に影響してるってすごくわかる。俺は弱いからすぐに感化されちゃう、逆にちょっとしたことで安心感も得られる。だら、今、すごく心穏やかになれてるんだ。しばらく手つないででいいかな」
 あたしはそれがすごくわかる気がした。こくりと頷くと、手をつないだままベンチに座った。震えの止まった手はあたたかかった。
 元気になった彼の話は楽しかった。昨晩の女同士のおしゃべりも楽しかったが、あたしのまわりに存在しないものの見方をもった人の話は新鮮だった。

 あたしは、昨日から押さえていた感情がここにきて押さえきれなくなってきたのがわかった。目の前にいる人なら受け止めて流してくれそうだと思った。そう思うともう堰を切ったように言葉が流れ始めた。
「彼氏がね、浮気してそうななの。証拠はないの、だから、昨日、突然彼の家にいってみようと思ったの。なにか確証得れるんじゃないかと思って。彼の言うことをすべて信じ切れれば良いんだけど、ひとつのほころびが、すごく気に引っかかって。そうしたらあたしの中で彼の言動すべての中に嘘を探そうとしてる。不安でいっぱいで、昨日も友達の家でのどまで出かけたの、でも言ってしまったらそれが真実になってしまいそうで怖くて言えなかった。それに、こんな状況なら電話一本入れてくれても良いじゃない。昨日の夜から一度も連絡入らないの。どうでもいいのかなあたしのことなんて」
 彼はあたしの手をぎゅっと握り、すこし悲しそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、急に変なこと言っちゃって。わすれてくださいって言っても無理だよね。あたしも感化されて不安が増大しちゃったのかな。あなたの感覚のとらえ方だとそうだよね」
 あたしは、すっとその言葉が出た。彼が黙っているので、夜空を見上げる、月の明かりが暖かい。
「今ね、彼氏のことちょっと忘れてるでしょ。顔がすっきりしてる。たぶん、ちょっとしたことだと思うんだ。君が今まで以上に彼氏の視線を欲してただけじゃないかな。彼はなにも変わってないんじゃないかな、君が彼氏のことをさらに好きになった証拠じゃないか。全く俺の推測だけどね、今の君みてるとそんな気がしたんだ」
 彼のことを言葉にしてから、あたしは確かに気持ちが落ち着いた。彼に言われたことを自分の言葉で考えてみる。確かにあたしは彼に対する時間を今まで以上にかけていた。そして、電話がかかってこなかったのも何か理由があってのことなんだろうと思えるようになった。
 携帯電話が鳴った、彼はベンチをたって空き缶をゴミ箱に捨てに行った。かけてきた相手は彼氏。いきなり、謝り続けている。電話の向こうで頭を下げている姿が目に浮かぶようだった。
「今ね、お月見してるの」

 あたしは去年の手帳を取り出した、確かあの人が名前と携帯電話の番号を書いてくれたはず。あの日彼氏との電話が終わった後、駅まで送ってくれて別れ際に無理矢理電話番号と自分の名前を押しつけていった。電話してという彼にあたしが無理だというと、「来年の今日でも名月の日でもいつでも良い、気が向いたときに」と言って彼は自転車に乗って街の闇に消えていった。
 あの水害から一年が経過した、中秋の名月まではあと二十日ほどある。また、お月見がしたくなったと電話してみるのもいいかなと思った。
 あの人にあの日あの場所で出会ったおかげであたしはつまらない女にならないですんだのかなと思う、好きな人を見る目はどうしても感情が主役になってしまう。満月の光が照らすように、好きな人を見るつよい視線を何かに反射させてすこし柔らかくした視線でみることも大切だと感じた。